ファッションという表現

著者
大正大学地域構想研究所 顧問
養老孟司

ファッションには縁もゆかりもない。そう思って生きてきた。

さすがに人前に出る機会が多いから、身なりを放置しておくわけにもいかない。そこで登場するのは女房である。着るものはすべて、女房任せ。

おかげでときどき「おしゃれですね」と言われる。こちらは着せ替え人形なんだから、笑って済ます。誤解されては困る相手には、女房のせいですと素直に報告する。

『人は見た目が9割』という本があった。たしかに見た目は大切である。ただ外見と中身が合っていることが望ましいので、それ以上でも以下でもないだろうと思う。

虫を見ていると、そのあたりがじつに面白い。小さいのにキラキラ光るやつもいるし、地味でゴミにしか見えないのもいる。アリの巣に棲む虫で、体の表面に長い毛を密にはやしていて、その毛にじつはゴミを付けて動くのもいる。ゴミの山が移動しているとしか見えない。移動しなければ、ただのゴミである。背中に自分が体液を吸って殺したアリの死骸を乗せているカメムシもある。その姿は幼虫の時だけで、脱皮して成虫になると、ぴかぴかのきれいなカメムシになってしまう。

まさに「様々なる意匠」である。もちろん問題は形のほうではない。見るほうである。虫の姿の場合は、もっぱら誰かが見ることが眼目である。見てくれなきゃ、意匠に凝った意味がない。見るのはネズミであり、鳥であり、トカゲである。できれそういう動物に食われたくないわけである。それでいろいろ工夫をしているに違いない。

ヒトも虫を見るけれども、ヒトの場合はおたがいの生存にほぼ関係がない。だから要するにどうでもいいのだが、虫の姿に思わず惹きつけられてしまう。その背後には、目という器官が発生して以来の、五億年という歴史があるはずである。その過去の重みが、眼前の意匠、その印象を決定する。

生物はつねに歴史の結果である。私はそう思うようになった。いまの状況を、突然そうなったと感じるのは普通である。でも東北の大震災だって、千年ごとに繰り返している。ヒトの寿命がそういう長期のことを考えるには向いていないだけである。虫の様々なる意匠も、長い歴史の結果であろう。

現在を過去の結果として見る。それが歴史だろうと、年とともに思うようになった。その筋書きは決して一直線ではない。網の目というしかない。それをヒトが理解できるかどうか、そんなことはわからない。

ただ美しいものは、美しいと感じる。その感受性も歴史の上にあるはずである。自然の美しさを人が感じるのは、そこに自然の法則性を見てとっているからに違いない。ただしその法則を理屈で書きだすことはできない。だからこそ、芸術になり、ファッションになる。及ばずながら、表現したくなるのであろう。

ファッションという表現に、そう思えば、愛着が湧いてくる。縁もゆかりもないと思っていたが、そうでないのかもしれないなあ。
 

撮影●島﨑信一

2019.06.03